【実務上の対抗・解決手順】会社からの刑事告訴をちらつかせた威圧的言動は、刑法第222条の「脅迫罪」や強要未遂罪に該当する可能性があります。会社側との直接交渉を停止し、弁護士を通じた受任通知の送達や内容証明郵便による退職意思の再通知、および会社からの不当な直接連絡を停止させる措置を講じることで法的保護を確保します。
退職に伴う刑事告訴の脅しに対する法的評価
労働者が会社に対して退職の意思を表示した際、使用者側が「不法な退職だ」「業務妨害で刑事告訴する」「損害賠償請求の裁判を起こす」などと告げて退職を思い留まらせようとする事例が見受けられます。しかし、労働法の法理において、労働者の退職の自由は憲法上の職業選択の自由(憲法第22条)に裏付けられた強固な権利であり、単なる退職が刑事事件に発展することは極めて稀です。
ここでは、退職を理由とした刑事告訴の脅しに対する法的な対抗措置と、刑法上の構成要件に関する正確な解釈を解説します。
民法上の退職の自由と期間の定め
労働契約の解約(退職)については、民法および労働基準法に明確な規定が存在します。期間の定めのない労働契約においては、民法第627条第1項により、解約の申し入れから2週間を経過することによって労働契約は終了します。
- 民法第627条(期間の定めのない雇用の一方的な解約):当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。
- 就業規則の定めの効力:就業規則において「退職は3か月前までに申し出ること」等と規定されている場合であっても、法律の定める2週間を超える期間の定めは、民法第627条の強行法規的な性質に反し無効と解されるか、あるいは単なる「努力義務」としての性質を持つに留まるのが法実務の通説です。
したがって、法定の期間(または就業規則上の合理的な期間)を経て行われた退職の意思表示は適法なものであり、使用者の承諾を得る必要はありません。
業務妨害罪・背任罪・横領罪が成立しない理由
使用者側が主張する各種刑事罰は、通常、以下の法理に照らして成立しません。
- 威力業務妨害罪(刑法第234条):人が自由に行うべき意思決定を制圧するような「威力」を用いて業務を妨害した場合に成立します。しかし、労働者が法律上の手続に従って労働契約の終了を申し出る行為は、法が認めた正当な権利の行使であり、刑法上の「威力」には該当しません。単に人員が不足することや、引継ぎが十分に完了していないことは、民事上の債務不履行の問題に過ぎず、直ちに刑事罰の対象とはなりません。
- 背任罪(刑法第247条):図利加害目的(自己もしくは第三者の利益を図り、または本人に損害を加える目的)をもって、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えた場合に成立します。労働者が会社を辞めること自体は、労働法上の正当な権利行使であるため「任務に背く背任行為」とは評価されません。
- 横領罪(刑法第252条):自己の占有する他人の物を横領した場合に成立します。退職時に会社の機密データや備品を無断で持ち去ったような場合には横領罪や窃盗罪が成立する余地がありますが、単に労働力を提供しなくなること自体は横領の客体となり得ません。
違法な告訴の告知と刑法上の「脅迫罪」の成立
労働者に対して「業務妨害で訴える」「警察に突き出す」などと不当に告げる行為は、客観的に見て害悪の告知に該当します。この行為自体が、刑法上の犯罪構成要件を満たす可能性があります。
刑法第222条(脅迫罪)の要件
刑法第222条では、生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処すると規定されています。
- 害悪の告知:使用者側が、客観的な根拠や刑事罰に該当する事実がないにもかかわらず、「逮捕させる」「警察を呼ぶ」「前科をつけてやる」といった不利益(害悪)を告げる行為は、これに該当します。
- 畏怖の念の生起:その告知によって、通常の人が畏怖(恐怖)する程度の心理状態に陥らせた時点で、脅迫罪の構成要件は充足されます。
- 権利の濫用と違法性阻却の不成立:使用者側が「正当な権利の行使(告訴権の行使)だ」と主張したとしても、その告訴が客観的に根拠を欠き、単に労働者を威圧して強制的に労働を継続させる目的で行われたものである場合、その告訴の告知は違法性を帯び、脅迫罪や強要罪(刑法第223条)が成立します。
使用者による不当な脅しに対する客観的対抗手順
使用者から刑事告訴や損害賠償を盾に退職を妨害された場合、労働者は感情的に反論するのではなく、以下の法的プロセスに則って冷静に対処する必要があります。
- 直接交渉の停止と連絡の遮断:威圧的な連絡や不当な要求を行う使用者とは、直接の電話や面談による接触を一切断ちます。労働基準法および民法上、退職の意思表示が到達した時点で契約終了に向けた法的効果は発生しているため、口頭での承諾を得る必要はありません。
- 内容証明郵便による退職意思の再通知:退職届または退職通知書を内容証明郵便を用いて会社宛に発送します。これにより、意思表示の到達日と内容を客観的な証拠として確実に保全します。
- 弁護士を通じた受任通知の送達:弁護士に代理人を依頼し、使用者に対して「受任通知」を送付します。弁護士が介入することにより、会社側からの労働者本人への直接連絡は実務上強く牽制され、不当な威嚇行為や直接交渉による精神的負担を軽減することが可能です。
- 悪質な言動の証拠保全:「業務妨害で訴える」「警察に行く」といった発言がなされた場合、そのやり取りが記録された録音データ、メール、チャット履歴、あるいは内容証明郵便の文面などをすべて保全します。これらは将来的な脅迫罪の告発や、不法行為に基づく損害賠償請求(慰謝料請求)の証拠資料として活用されます。
労働者の退職は正当な権利であり、法的なルールを遵守して手続きを進める限り、会社側が刑事告訴をもってこれを阻止することは法的に不可能です。不当な脅しに屈することなく、客観的な証拠と法律上の根拠に基づいた毅然とした対応が求められます。

