【実務上の対抗・解決手順】会社に対し、労働安全衛生法違反および賃金全額払いの原則違反を指摘する「内容証明郵便」を送付し、不当に控除された金額の返還を求めます。任意交渉に応じない場合は、労働基準監督署への申告や、少額訴訟・民事調停等の法的手段に移行します。
はじめに:退職時に発生する健康診断費用のトラブル
退職の際、最終給与の精算時に「会社指定の健康診断(雇入れ時健診や定期健康診断)の費用を自己負担するように言われた」「給与から一方的に健診代を天引きされた」というトラブルが後を絶ちません。
労働安全衛生法および関連法令において、健康診断の実施およびその費用の負担主体は明確に定められています。使用者が労働者に対して費用を請求することの法的妥当性について、労働法務の観点から徹底的に解説します。
健康診断の実施義務と費用負担の法的根拠
労働安全衛生法に基づく使用者の義務
労働安全衛生法(以下「安衛法」という)第66条では、事業者は労働者に対し、医師による健康診断を行わなければならないと規定しています。
- 雇入れ時健康診断(安衛法第66条第1項):事業者は、常時使用する労働者を雇い入れる際、その労働者に対して医師による健康診断を実施しなければなりません。
- 定期健康診断(安衛法第66条第1項、安衛則第44条等):事業者は、1年以内ごとに1回、定期的に健康診断を実施しなければなりません。
これらの健康診断は、労働者個人の健康管理という側面のみならず、企業が労働環境を適切に維持・管理するための法的な強制義務として課されています。
なぜ費用は使用者が負担しなければならないのか
安衛法上、健康診断の受診は労働者の義務とされていますが、それはあくまで「事業者が実施する健康診断を受診する義務」です。
法が事業者に健診の実施を義務付けている以上、それに伴う一切の費用(受診料等)は、事業運営上の経費として使用者が全額負担すべき性質のものと解されています。行政通達(昭和48年10月12日基発第602号等)においても、健康診断に要する費用は原則として事業者が負担すべきものと示されています。
したがって、特約や就業規則に「退職時の自己負担」等の規定があったとしても、労働基準法に反する無効な合意と判断される可能性が高いといえます。
給与からの天引き(相殺)に対する労働基準法上の問題点
賃金全額払いの原則(労働基準法第24条)
会社が勝手に健康診断費用を給与から差し引いて支払う行為は、労働基準法第24条第1項に違反する可能性があります。
同条では、賃金は「通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」と定めています(賃金全額払いの原則)。例外として法令に別段の定めがある場合や、過半数労働組合等との書面による労使協定がある場合を除き、会社が一方的に賃金から一定額を控除することは禁止されています。
労働者が合意していない、あるいは強要された合意に基づく健診費用の控除は、違法な賃金カット(一部不払い)に該当します。
退職時に健康診断代を請求された場合の具体的な解決手順
会社から不当に健康診断費用を請求された場合、または給与から天引きされた場合は、以下のステップに則って客観的かつ法的に対抗します。
1. 証拠の収集と保全
まずは、以下の資料を書面やデータで手元に残します。- 雇用契約書・労働条件通知書(健診費用に関する特記事項の有無を確認)
- 就業規則(賃金規程・退職に関する規定)
- 健康診断の受診を指示されたメールや書面、会社指定のクリニックの案内
- 健診費用の領収書、および給与明細(天引きされていることが確認できるもの)
2. 会社に対する返還請求(内容証明郵便の活用)
口頭での交渉は「言った・言わない」の水掛け論になりがちであるため、書面による請求を行います。労働基準法違反および安衛法上の使用者負担原則に基づき、不当に控除された賃金の返還を求める「内容証明郵便」を送付するのが実務上最も効果的です。内容証明郵便には、以下の要素を論理的に記載します。
- 労働安全衛生法に基づく健康診断費用の使用者負担原則
- 労働基準法第24条(賃金全額払いの原則)違反であることの指摘
- 不当に控除された金額の指定口座への返還期限
- 期限内に返還されない場合の法的措置(労働基準監督署への申告や法的請求)の予告
3. 公的機関の活用および法的手段
会社の任意の対応が見られない場合、以下の手続きに移行します。- 労働基準監督署への申告:労働基準法第24条違反について、是正勧告を行ってもらうよう申告します。
- 少額訴訟・民事調停・支払督促:数万円程度の請求であれば、簡易裁判所における少額訴訟や支払督促を利用することで、比較的迅速かつ低コストで金銭を回収することが可能です。
まとめ:不当な請求には法的に毅然とした対応を
会社指定の健康診断費用を退職時に自己負担させられる法的な正当性は原則として存在しません。健康診断は使用者の義務であり、その費用負担を労働者に転嫁することは労働関係法令に抵触する行為です。
不当な天引きや請求に直面した際は、感情的な抗議ではなく、労働安全衛生法および労働基準法を根拠とした客観的な書面(内容証明郵便等)による返還請求を行うことが、法的解決への最も確実なアプローチとなります。

