【金融危機】1980年代 円高不況
2024/12/17 更新
1980年代の日米の貿易摩擦
(1) 1980年代当時、日本の最大の輸出国は米国でした。輸出の4割を米国が締めていました。
(2) 当時、米国は景気が良く、金利も高かったために、米国への海外投資が盛況でドル高になっていました。
(3) 日本の対米黒字が増加し、米国の貿易赤字は拡大していたことから、米国は日本に市場開放や、円高政策を求めてきました。
(4)当時、米国との関係悪化を防ぐことは、日本の官民でも共通の課題でした。
プラザ合意
(1)1985年9月22日、米、日、独、英、仏の4カ国は、以下の政策の合意を行いました。それがフラザ合意です。
(2)日本は、ドルとの関係で、円高を目指して、為替介入を行う。
円高になれば、長期的には、輸出が減って、輸入が増え、貿易黒字は減少します。
(3)日本は、市場開放、規制緩和を行う。
当時は、市場が開放されれば、経常赤字は自然となくなると信じされていました。
(4) 日本は、内需を拡大する。
日本の内需が拡大すれば、輸入が増えると考えられたからです。
ルーブル合意
(1)1987年2月22日、米、日、英、西独、仏、伊、加は以下の合意をしました。
(2)日本は、これ以上の円高を目指さいない。
(3)日本は、財政再建方針を棚上げして財政支出をして内需の拡大を目指すことを約束しました。
ブラックマンデー
(1)1987年10月19日、ニューヨーク株式市場が大暴落しました。
(2)米国は財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」を抱えており、ドル安に伴うインフレ懸念が浮上したことが原因とされます。また、ニューヨーク市場の暴落は全世界に波及し各国で同時株安に陥りました。
バブルへ
(1)日本は、内需の拡大のために、大幅な財政支出と、低金利政策をとります。
(2)日本は、財政、金融、規制緩和と政策を総動員した結果、日本経済は暴走して、バブルとなりました。
(3)また、円高を契機に、日本の製造業は海外での生産に力を入れるようになり、日本の若者が就職難となる10年間の就職氷河期を迎えました。
1990年後半の米国
1990年後半の米国は、経常赤字を増加させますが、景気はよく、結局、ドルの暴落も起きませんでした。
参考
宮崎成人「教養としての金融危機 」96頁以下